2010年01月08日

横浜美術館

横浜港の周辺には、江戸時代末期に開港した、横浜港の発祥地とされる「象の鼻地区」や、歴史的な建造物が立ち並ぶ馬車道など、開港の歴史を感じられる、さまざまなスポットがあります。
そして、郊外には、日本最大級の動物園や、運動競技場など、魅力的な施設がたくさんあります。

「横浜美術館」は、1989年、横浜市制100周年・横浜開港130周年の記念に建設されました。
セザンヌやダリといった、世界的に有名な画家の作品が集められています。
さらに、「子どものアトリエ」という、絵の具や粘土を使用して工作を楽しむ施設もあります。

開港当時、馬車が外国人を乗せて通った道が、「馬車道」と名付けられました。
この道は、ガス灯やアイスクリームなど、「横浜もののはじめ」が誕生した場所です。

開港時、中国人が、上海、香港、広東などからたくさんやってきました。
彼らは、日本人と西洋人の通訳をしたり、日本人に新しい技術を伝えたりして、横浜にとっては欠かせない存在となりました。
そして、現在でも賑わう「中華街」を築くことになったのです。

山手の丘には、昔から多くの外国人が暮らしていて、美しい西洋館がたくさんありました。
今でもそこには、関東大震災後に建設された西洋館が保存され、見学することができます。
その西洋館も、おしゃれで美しく深い歴史を感じさせます。

子どもたちに大人気の施設「こどもの国」のある場所は、昔、アメリカ軍の基地でした。
1961年に返されて、とても楽しい遊び場として生まれ変わりました。
横浜で最も長いローラー滑り台や、ボートに乗って楽しむことができます。  


Posted by irgud1w6 at 12:27横浜の歴史

2010年01月03日

さまざまな苦難が、横浜にもあった

横浜は、開港してから、世界につながる港として、大きく発展していきました。
ところが、その道のりは険しく、関東大震災、戦争、連合軍の占領、・・・とさまざまな苦難が、横浜にもあったのです。

1923年9月1日、横浜を、マグニチュード7.9という大地震が襲いました。
開港以来、60年間に渡って築いてきた横浜の街は、この大地震と、それによる火災によって、大被害を受けてしまいました。
ところが、そんな中でも、奇跡的に、開港記念館の時計塔は、壊れることがありませんでした。
多くの市民が、その立派な姿に、勇気付けられたのです。

震災によって崩れた建物のがれきを集め、それで海を埋め立ててでき上がったのが、「山下公園」です。
この山下公園を会場として、1935年3月?5月の期間、「復興記念横浜大博覧会」が開催されました。
山下公園の前に、大きないけすを造って、鯨を泳がせた「生鯨館」や、アメリカをはじめ、いろいろな国のパビリオンに人気を集め賑わいました。
来場者は、300万人にも上ったそうです。

戦争時の横浜は、1942年?1945年に、連合軍によって、空襲に30数回もみまわれ、大変な被害を受けました。
そして敗戦と同時に、連合軍により、横浜港や横浜市内のあちこちを占領され、経済面でも大きな打撃を受けました。
現在でも、アメリカ軍の基地が市内に残っていますが、「深谷通信所」や「上瀬谷通信施設」などは、近い将来にはなくなって、日本に返ってくるそうです。

このような大変な苦難を乗り越え、ここまで発展したのは、当時の人々の努力があったからこそです。
横浜の街を支え続けてくれた人々のおかげで、現在の大都市横浜があるのです。  


Posted by irgud1w6 at 20:45横浜の基礎知識

2009年12月29日

横浜開港によってさまざまなものが日本へ入ってきて、全国へ

横浜は、開港したことで、多くの外国人がやって来ました。
外国人たちは、母国での生活と同じようにするために、当時の日本にはなかったものを、たくさん持ち込みました。
それが、横浜から全国へと広まって行きました。
このことを「横浜もののはじめ」と呼ばれています。

1869年には、横浜で最初の「鉄橋」が、中区吉田橋に造られました。
市民には、「かねのはし」と呼ばれ、親しまれていました。

1866年、曲芸で有名であったリズレーが、牛6頭とその子牛を連れて、アメリカからやって来ました。
そして、横浜に牧場が開かれ、「牛乳」を売られるようになりました。

1864年、ファーガスンが横浜ホテルで、ヘアー・ドレッシング・サロンを開業したのが、最初の「理容」です。
日本人としては、1868年頃に、小倉虎吉が最初に開業しました。

1860年、内海兵吉が、フランス軍艦の乗組員コックから、「パン」の作り方を教えてもらいました。
それが最初に焼いたパンだそうです。

1869年、最初のビールを醸造したのは、山手にできた「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」という会社でした。
そして、1870年には、「天沼」という土地の辺りから出る湧き水を利用して、本格的にビールを作り始めました。

1871年、横浜?神奈川間で、鉄道の試運転が始まりました。
翌年の5月には、品川との間でも仮運転が始まり、9月には、新橋にまでつながりました。

その他にも、横浜開港によって、さまざまなものが日本へ入ってきて、全国へと伝わりました。  


Posted by irgud1w6 at 11:20横浜の歴史

2009年12月24日

もっとも活躍していたのは、外国との取引を行っていた貿易商人

横浜は、開港当時、わずか100戸程度の静かな村でした。
ところが、開港されたことによって、たくさんの貿易商人や技術者が集まり、生糸を中心として、絹織物やお茶を輸出するための港として発展していきました。
街には、さまざまな品物を取り扱う貿易商人の店が並び、活気のある街になっていきました。

開港後、横浜では、商売を始める人たちが、いろいろなところから集まってきました。
また、そこで商売を始めた人は「横浜商人」と呼ばれていました。
その中で、もっとも活躍していたのは、外国との取引を行っていた貿易商人でした。

また、蚕のまゆからとれる「生糸」を取引していた貿易商人は、特に活躍していました。
山梨県や群馬県、長野県などで生産された生糸が、横浜に運ばれて来て、それを扱う貿易商人によって、海外へ輸出されたのです。

外国の商人は、日本の生糸をたくさん輸出してもらうために、横浜商人と交渉を行ったのですが、言葉が通じなかったことや、ものを測る単位が違ったことから、横浜商人は、たまに損をしていたそうです。

また、外国から、さまざまな国の人々がやって来るようになったので、英語やフランス語など、いろいろな言葉が飛び交っていました。
昔の人々は、外国の言葉を、耳で聞いたままに覚えて、外国の人と会話をしていたそうです。
たとえば、「Good morning.」は「グルモウネン」、「Thank you.」は「タンキョウ」、「How much.」は「ハマチ」などです。

そのような地道な努力があったからこそ、今の大都市横浜ができあがったのですね。  


Posted by irgud1w6 at 19:15横浜の歴史

2009年12月19日

1853年、ペリー提督が黒船に乗って、横浜に上陸

横浜は、2009年に、開港150周年を迎えます。
港が横浜に開かれてから、現在のような大都市に発展するまでの150年間には、多くの人たちの大変な努力と活躍がありました。

江戸時代の日本は、江戸幕府によって、外国との付き合いを禁止する「鎖国」をしていました。
ところが、1853年、ペリー提督が、「アメリカと開国をするように」という内容の手紙を持って、黒船に乗り浦賀にやって来ました。
その1年後、ペリー提督は、手紙の返答を聞くために、再び黒船に乗って、横浜に上陸しました。
その時、上陸した場所が、現在の横浜県庁や横浜開港資料館のある辺りです。

日本は、アメリカとの開国を承諾し、横浜には、外国からの船を受け入れるように、港を造りました。
そして、横浜港が誕生したのです。
その場所は、現在大さん橋の根元の辺りにあり、「象の鼻地区」と呼ばれ、その名は現在でも残っています。

「象の鼻地区」には、最初、直線の船着場が2本造られ、1867年に、1本の船着場が曲がった形に変更されました。
そして、その形が「象の鼻」に似ていたことから、「象の鼻地区」と呼ばれるようになったのです。

横浜港の開港記念日は、6月2日です。
横浜港が開港された日は、1859年7月1日でしたが、これは、旧暦安政6年6月2日にあたるので、1928年に、横浜市の議会で、開港記念日が6月2日と決まったのです。
そして、2009年6月2日には、150歳の誕生日を迎えます。  


Posted by irgud1w6 at 10:08横浜の歴史